オクト絵画教室の皆様へ 若林薫の思いを手紙にしてお届けいたします       2008年2 1
昨年11月法事で12年ぶりの故郷(大分県臼杵市)に帰りました。1日だけでしたが車で観光に

出かける事が出来ました。臼杵市は海に近い城下町であり門前町でもあります。

その日は風連鍾乳洞に立ち寄り
山の中を走り 大野郡にある朝倉文夫記念館を訪れました。

東洋のロダンとも称されていた彫刻家。

1883年大分県大野郡に生まれ明治41年第2回文展

より
8回文展まで連続7回受賞という輝かしい

実績をあげ、官展審査委員、帝国美術院会員と

なる。


入学した大分尋常中学校竹田分校(在学中に

「竹田中学校」に独立。現大分県立竹田高等学校)

を三度も落第し、いたたまれなくなった母キミに

より、明治
35年当時東京で新進気鋭の彫刻家とし

て既に活躍していた
9歳年上の兄渡辺長男を頼って

上京することになる。



翼の像(上野駅構内)

結果的に兄のもとで彫塑に魅せられた文夫は必死の受験勉強の末、翌年東京美術学校(現・東京芸術大学)

彫刻選科に入学。
東京美術学校彫刻選科時代、寸暇を惜しんで彫塑制作に没頭した。モデルを雇う金が

ないために、上野動物園に通って動物のスケッチをするうち、たまたま教授からの紹介を受けた貿易商の

注文で動物の像の制作を始め、ほぼ
1日に一体のペースで卒業までに1200体以上に及んだという。

大正
10年に東京美術学校の教授に就任、ライバルと称された高村光太郎と並んで日本美術界の重鎮で

あった。昭和
9年にアトリエを改築し「朝倉彫塑塾」を作る。アトリエは戦災をくぐり抜けるが、戦時中の

金属供出のために、
400点余の文夫の作品はほとんど消滅してしまう。(原型は300点余が残された)

戦後も精力的に自然主義的写実描写に徹した精微な表現姿勢を一貫して保ち続け、
昭和23年は第6

文化勲章を受章。昭和
27年に文化功労者に、昭和33年には日展の顧問に就任した。非常に多作であり

全国各地に数多くの像を残した。上野駅構内にある「翼の像」 早稲田大学にある「大隈重信像」等など

いたるところに展示されて
います。

秋も遅くなった11月末、青空がのぞき紅葉する山の中 

突然整然とした敷地が
現れる。大分アジア彫刻展

日本近代彫刻の基礎を築いた朝倉文夫の偉業を顕彰し、1992年より

開催されている彫刻展。
アジアの新進彫刻家の登竜門として、注目を

集めています。
の受賞作品達が敷地内に点在している。

ここに朝倉文夫記念館がある。
125年前にこの片田舎で

生まれた青年が
日本の近代彫刻の基盤を作りだし、

そしてアジアに
世界に広がっている事実。

昭和
3981歳死去まで制作し続ける執念と熱意は、成し

遂げるべく偉人です。

臼杵市には大きな鍾乳洞があります。初めてここを発見し

た人々の驚きを思い、鍾乳石の造形に見入り 恐ろしく

長い時の経過に宇宙を感じました。大分から見た雄大な

阿蘇山・湯布院・九重の山々。阿蘇に日が落ちるのを

名残惜しみながら 大きな空間と長い時間の中に生かされ

ている自分を感じました。

時に自然の中に身を置くことの大切さを痛感した一日

でした。          薫



大隈重信像(早稲田大学構内)


進化

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